箱庭的幸福/エッシャー展に寄せて
なんともなしに行ったエッシャー展が素晴らしかったので書きます。
(横浜そごう美術館。名前のまんま、横浜駅から直通のそごうにあります。)
私のエッシャーの認識としては「だまし絵描いてる人」程度のものでしたが
今回のブログでお詫び申し上げたいと思います。
まず本物をみて思ったことは【想像以上に絵が精密】。
単に、3次元的に存在し得ない不思議な絵を描くだけならここまで心惹かれない気もしますが、エッシャーの絵は非常に装飾的で精密で、それが作品にある種のリアリティを与えています。
実際、製作過程では拡大鏡を使用しているようですし、それだけで本当に見ごたえがあります。
そして何よりも感動するのは、一つ一つの絵がそれぞれ【完全に美しく完結した世界観をもっている】ことです。
エッシャーの作品には、ある種の「エッシャーらしい」幾何学的に配置された模様や、独特のモチーフはありますが、エッシャー個人の感情(楽しい・悲しい)などは読み取れません。
それぞれの絵は、感情を超えた「規則」に則って完璧に配置され、絵の中にぴっちりと納まっています。まさに【箱庭】のような世界。
その作品の中にいる限り絵も私たちも幸福でいることができる・・・そんな風に感じました。
エッシャーの作品は、版画だからなのか(しかも細かいし)どれも割と小さいサイズのものが多く、さらに白黒のものが圧倒的です(彩色あっても2色程度)
でも、絵の大小や彩色にかかわらず「この絵はこれ以上でもこれ以下にもならない。この絵に描かれていることがすべてなんだ。」とどの作品をみても感じました。
今日の結論としては、
「エッシャーの作品は単なるだまし絵にあらず!箱庭世界で世を救う画家である」
です。飛躍しすぎでしょうか。
最後に。展示作品で一番好きだったのはこの作品でした。サイトに作品多数載っていたのでぜひ。
じん(自然の敵P)「カゲロウデイズ」と萩尾望都「酔夢」が似てる
二つの共通点について書きます。
まず、カゲロウデイズは所謂ボカロ曲です。
結構有名だから知らない人も聴いてみたらいいと思う。
本家の動画じゃないようですが、こっちのほうが状況が分かりやすいので。
(余談ですが歌い手りぶの「歌ってみた」もおすすめ)
非常に不思議な世界観ですが、萩尾望都の漫画にも似たようなのが。
こちらに収録されている「酔夢(すいむ)」です。
21Pくらいの短編なのでどこまで有名なのかは知らないのですが
知らない人のためにあらすじを。
※※※
前世。占い師は姫に告げる。
「心を告げるいとまもなく あなたはその人の足もとで うつぶせで死ぬだろう」
そしてその通りになってしまう。
生まれ変わった未来ではお姫様は男(正確には両性具有)に生まれ変わっていた。
過去と少しだけ状況が違うためか、2人はつかぬ間心を通わせることができる。
過去の運命を止めようと男は夢を遡り過去へ行く。
しかし、運命を阻止しようとして、運命が逆転する。
過去では姫が生き残り、未来でも今まさに男が死のうとしている。
占い師の声が聞こえる
「その男はあんたの足もとで あおむけで死ぬだろう」
※※※
おわり。
書いててつらくなってきた。ぜひ漫画で全部読んでみてほしい作品です。
というわけで2つの話はこう。
「ある(運命づけられた)男女は、何回目覚めても(何度生まれ変わっても)
女性が死に、男性が生き残る。結ばれることはない」
↓
「運命を変えようと男が動く」
↓
「女性の死は免れるが今度は男性が死ぬ(また繰り返す)」
どちらも話はここで終わるわけですが、これにそもそも元ネタって何か
ある気もするんだけどどうなんだろう。気になる。
ネットのコメントで「2人一緒に死んだら何か変わるんじゃ」という考察が
されていて興味深いと思いました。
やっぱりオチはないけど今日はここまで。
GLIM SPANKYの「大人になったら」がしびれる
最近毎日聞いてる一曲。
自分達がやっていこうとしている音楽に対する決意表明のような歌。
相手に投げかけるような言葉ですが、その言葉一つ一つがむしろ反対に歌っている側が何に強い執着があるのかわかる、そんな歌。
GLIM SPANKYのルーツは60~70年代のロックだということは既に
いろんなところで言われている話ですが、
『そんな(60年代70年代の)ロックは知らない 要らない 聴かない君が 上手に世間を 渡っていくけど』
『私たちは やることがあって ここで唄ってる』
こういうわけですね。
この『要らない』っていう表現がすごい。強烈。「キョーミ無い」「知ろうともしない」「必要ない」そういう色んな要素をまるごと説明している。
わざわざそういう言葉を選ぶところに歌う側のフラストレーションを感じるし、
『上手に世間を渡って』っていうのもちょっと皮肉だよね。
じゃあ60年代ロックにもともと興味ない人に自分達の音楽は届かないのか、
意味はないのかというと、いやいやそんなことはないよと。
唯一歌詞の中で不満や主張が語られていないのが
『知らないあの子が 私の歌を そっと口ずさむ夜明け 優しい朝』
私個人の感じ方としては・・・この「あの子」は若くて60年代のロックを知らない子を想定してるのではないかな・・・と思っています。
(逆に『君』は同世代かな。それ以上になると当時のロックをダイレクトに聴いていた時代になってしまうと思うので)
そもそも、60年代のロックを知っている人に伝わりやすいのは当然で、『あの子』に伝わっている、自分達があの時代のロックを受け継いでいる。確かに誰かに届いてる。
だから私は唄って行ける、唄ってゆくのだ、と。
そんな風に受け取りました。
こんな強い生き方をしてみたいものです。
今日はここまで。
三島由紀夫「潮騒」と米津玄師「海と山椒魚」が合う
三島由紀夫の「潮騒」を読みました。以下感想。
とにかく読んでいて、幸福な気持ちにさせられる小説でした。
少女マンガか!ってくらい、最初から最後までピュア。心が洗われました。
舞台は歌島。実在の島で、今は神島と呼ぶらしいです。
若く逞しい、寡黙だけど真面目で正直な漁師の新治と、愛らしくみんなの憧れの的、海女の初江。2人は愛し合ってるんだけど、小さな島なのに、小さな島だからこそ、いろいろあってなかなか進まない。でも最後にちゃんと結ばれる。
「潮騒」のいいところは、本気で嫌なやつは出てこないところだと思います。
歯がゆいんだけど安心して読み進められるというか。現実にはないかもしれないけど、誰もが心の中に持っている桃源郷みたいな世界。どきどきしながら2人の恋を見守る島の海女の気持ちで読みました。
モブの千代子も非常に人間くさくて好きです。
本当は新治が好きなんだけど、自分に自信がなくて嫉妬したり、意地悪な気持ちになったり、それをくよくよしたり。最後まで気持ち伝えずでしたけど、彼女の気持ちが少しだけ報われるシーンがあって、「よかったね!よかったね!(涙)」と胸がいっぱいになりました。
人生には、直接的に報われるものと、間接的に報われるものがあって、間接的に報われることのほうがいつまでも心に残ったりするものですよね。
こんな幸福な小説を書いたひとが31歳で割腹自殺したとは人生難しいですね。
というわけで、読んでる間に聞いていたのはこれ。
米津玄師の「海と山椒魚」。「潮騒」の世界観に非常に合っていました。彼自身、宮沢賢治とか三島由紀夫も好んで読んでいたそうなので、さもありなん。
「海と山椒魚」自体も井伏鱒二「山椒魚」からきてそうだし(山椒魚は呼んだことない・・・)
この小説、映画にでもなってそうだな~と思ったら、やっぱりなっていました。
百恵ちゃんではないですか。百恵ちゃんの「伊豆の踊り子」は高校生のときに見たことあります。これも近々観ておこうと思います。