薄花色の休み時間

美術館とか、本とか、映画とか。愛しているものたちについて。

米津玄師の「百鬼夜行」を考える

最近米津玄師しか聴いてないので今日は「百鬼夜行」でいこうと思う。

YANKEE (通常盤)

YANKEE (通常盤)

 

 昔の米津玄師はなんだか棘があって、それがまた今とは違う良さがあるね。この曲は 我らは現代の妖怪だ! という歌詞の通り「現代の人間を妖怪に例えた歌」だ。とっても皮肉っぽくてそんでもって下ネタのオンパレードである。順番に見て行こう。

 

ちゃんちゃらおかしな出で立ちで また酒呑み呷れど日は暮れず

つまらん顔して街を行く ほら あれこれ言うては酔い散らす

いや どだいもどだいに面倒で おかしな飲ん兵衛だ 

 

ンボロ錦の更紗模様 その洒落たお顔には金魚の絵

腰やら股やら働かせ またお手軽欲望貪れば

今どこへも聞こえる声出した 「私さみしいの」

 

ここでの共通点は、二人とも理性を失い欲望のままに生きている状態であることだ。飲ん兵衛は昼間っから飲んでだらしなくクダを巻いている様子がわかるし、女もお手軽に男を誘ってその場限りの情事にさみしさを紛らわせている。

 

呼ばれて飛び出てこの世に参上 皆様よろしくどうぞ

楽しくなったり悲しくなったり 忙しのない日ばかりだ

帳を上げろや昼行灯ほら ここらでおひとつどうだ

我らは現代の妖怪だ!

 

「呼ばれて飛び出て」はハクション大魔王のイメージだろうか。この世に生を受けたことを皮肉たっぷりに歌い上げる。また「楽しくなったり悲しくなったり 忙しのない日ばかりだ」というのは人生そのものだ。

 

要は「望んでもないのにこの世に生まれ落ち、感情や欲望に振り回されている人生だ」ということなんだろう。そしてつづく「帳を上げろや昼行灯」はダブルミーニングになっている。

まず、帳とは「覆い隠すもの、垂れ布」という意味がある。そんで昼行灯とは「ぼんやりしてる人、役に立たない人」の意味だ。「ちょっとぼーっとしてないでその帳をとっぱらっちゃって!」といった感じだろうか。もう一つは「夜の帳が下りる」の反対語としての「帳を上げろ」である。夜の反対は・・・というわけで「昼」行灯。言葉遊びが楽しいね。

 

 では「帳に覆い隠されているものをとっぱらった」ら、何が出てくるのだろうか。そう、「妖怪」なのである。人間の皮を被っているけど、中身はみんな妖怪だ!!というわけだ。

 

頓珍漢なことばかり まだ信じている

狸の背中に火を灯せば ほう

あんあん ぱっぱらぱの行進 やってやれほら

バケツ叩いては声上げろや ほう

明るい夜の到来だ ようそろ

 

曲のタイトルにもなっている百鬼夜行してる部分。「ぱっぱらぱの行進」て中々ディスった言い方だな。

 ここで妖怪たちが信じている「頓珍漢なこと」とはなんだろうか。「自分たちが(理性を持った清く正しい)人間だということ」である。そして狸や狐は日本の昔話で他のもの(主に人)に化けることができるとされた動物である。その背中に火を灯せば(水被せば)・・・・「化けの皮が剥がれる=妖怪の姿が現れる」と言うわけで、さっきの「帳を上げろ」と同じことを指しているわけだ。

 

「ようそろ」は航海用語で船を直進させるときの掛け声らしい。百鬼夜行が行進していく様を指していると同時に、色々皮肉りつつもそれこそ人間の姿ださあいこうという肯定でもあるだろう。

 

みなみな欲望詰め込んだ そのペラペラ少女とニヤケ猿

お願い全てを投げ付けて また 一人で快楽部屋の隅

ほら 頭と目ばっか肥えて行き 青白い顔

 

雨降る夜には傘になり その体で誰かと雨宿り

お歌を歌えば人を騙し また誰彼構わず慰める

ほら盲信者増やして傘下に置いて 孤独で遊説を

 

基本的に2番は1番の歌詞に応える歌詞であえる。ペラペラ少女=二次元の女の子であろう。ここで描かれているのも基本的に1番と同じ「孤独を性欲で慰めている人間のすがた」である。

さらに1番では「オンボロ錦の更紗模様」といった着物姿を連想させる表現に対し「ペラペラ少女とニヤケ猿」といったパソコンや携帯の画面を思わせる表現が取られており、「過去」と「現在」といった時間の対比も感じられる。

 

生まれて初めてこの世に登場 続きは表でどうぞ

嬉しくなったり怒り狂ったり 忙しのない日ばかりだ

その手を下ろせや用心棒 ほら ここらでおひとつどうだ

我らは現代の妖怪だ!

 

嬉しくなったり怒り狂ったり」は、1番と合わせて喜怒哀楽である。

では「その手を下ろせや用心棒」はなんだろうか。用心棒とは、何かを守っている番人のことである。その用心棒に手を下ろせ、と言っているわけなのでここでは「妖怪の本性を隠して守っていないで見せろ」の意であろう。

 

どんでんひっくり返し行こうや スチャラカほいさ

狐の頭に水被せば ほう

あんあん ぱっぱらぱの行進 やってやれほら

薬缶鳴らしては声合わせや ほう 

明るい夜の到来だ ようそろ

 

1番ではバケツ、2番では薬缶。チンドン屋のようなイメージだろうかね。

 

こんな具合になったのは誰のお陰だろうか

こんな具合になったのは ああいまさらどうでも ええわ

 

これは下ネタ••••「具合がいい」って言うよね。

どうでもええわ、ってナチュラルに関西弁?徳島弁?が出てていいね。

 

そして最後のサビ。この歌の種明かしというか一番言いたい部分。

 

ちゃんちゃらおかしな世の中だ

その平和と愛とをうたえども

心にあるのはそれではない

また僕らにそれほど自由はない

ほら得意の炎で焼いてくれ

あなたの言う愛で

 

ここの「うたう」は「謳う」である。多くの人々が褒めたたえる、ある事を盛んに言いたてるの意味だ。平和や愛を盛んに言いたてて褒めそやすけれど、心にあるのはそれ(平和や愛)ではない。じゃあなんだ?そう「孤独」や「性欲」なのだ、というのがこの曲の結論だ。

 

人間・平和・愛

   ↕︎

妖怪・孤独・性欲

 

簡単に書くとこういう図式になる。

確かにここまで書かれてきた表現は、キラキラした平和や愛などではない。そして平和や愛だけを考えて行きていけるほど人間は強くないし自由ではない。

孤独や不安に苛まれたり、喜怒哀楽に振り回されたり、性欲も自分の欲望を一方的に詰め込んでしまうような自分勝手で不自由な生き物だ。

 

あなたの言う純粋な「愛の炎」とやらで、俺の言うことを焼いてみろよ(論破してみろよ)という挑戦的な最後でこの曲は終わる。

 

鬱屈とした内容だが、小気味いい。また時々はこう言う曲をかいてほしいよね。

おわる。