私たちは誰もセーラームーンになれない②
前回の記事の続き。
私たちは誰もセーラームーンになれない。
今度はセーラー戦士たちの話しをしたいと思う。
中でもメインメンバーは「セーラーマーズ」「セーラーマーキュリー」「セーラージュピター」「セーラーヴィーナス」の4人である。
彼女らもまた、普段は火野レイ、水野亜美、木野まこと、愛野美奈子、という
ごくフツーの女の子として生きながら、ある地点までは「非日常」としてセーラー戦士を引き受けている。
しかし、セーラームーンの仲間として戦ううちに、彼女らも「セーラー戦士」としての自我に目覚めて行くのであるが、
はっきりとした境界線がなく、段階的にセーラームーンとして目覚めて行く「月野うさぎ」と違い、彼女らは明確な通過儀礼を通してセーラー戦士としての自我を引き継いでいる点に特徴がある。
その理由は、4人にはもともと「現世の自分」としての将来の夢があった為である。
火野レイは「おじいちゃんの神社を継ぎたい。」
水野亜美は「母のような医者になりたい。」
木野まことは「幸せな結婚をして、花屋とケーキ屋をやりたい。」
愛野美奈子は「アイドルになりたい。」
このように彼女らは、少なくともセーラー戦士になるまでは、
それぞれ「現世の自分」として将来のため
必死に勉強したり、お料理をしたり、巫女として働いたりと努力していた。
これは月野うさぎが、特段夢もなく努力もせず「およめさんになりた〜い」と妄想していたのとは対照的である。
逆に言えば「今の人生に執着がないため、セーラームーンとしての役割を抵抗なく受け入れることができた」とも言えるかもしれない。
ある話で、敵は「それが本当にお前のやりたいことなのか?セーラムーンのせいで自分の夢から遠ざかって居ないか?」とセーラー戦士を誘惑する。
セーラー戦士たちの心は揺らぐ。
これは「現世の自分(日常)」として生きるのか「前世の自分(非日常)」として生きるのか選べということだ。
構図は前回も例に挙げた、おジャ魔女どれみの最終回に似ている。どれみ達は「現世の自分」を選んだと言えるだろう。同じく、神風怪盗ジャンヌの中でも前世ジャンヌの恋人が現れるが、現世の「まろん」として「稚空」を彼として選んでいる。
非日常ではなく日常を選ぶのが物語の王道であり正解とも言えるのかもしれない。
しかし、セーラー戦士の4人は一度は揺らぐも
「私の『本当の』夢はセーラー戦士としてセーラームーンとこの星を守ること!!」と自分の意思で、はっきりと非日常を選択しているのだ。
漫画が少女に伝えるメッセージとして、これは正しかったのだろうかと考えると
間違っていたのではないかと思わざるを得ない。
なぜか。
一番は、非日常を良しすることは現実を否定することだからだ。
火野レイ・水野亜美・木野まこと・愛野美奈子が、現実に向き合い、努力し、家族や友達を大切にしていた姿勢を結果的に否定し、
極端に言えば日常を生きている読者全員を否定していることになるからだ。
二つ目は、非日常であれ選択した以上はそれが日常になってしまうことだ。
最終話は、すべての敵との戦いが終わり結婚式の風景で終わる。お互いを「まもちゃん」「うさ」と呼んでいるところは、敵が去り日常が戻ってきた証と言える。
しかしそれはもう、お父さんやお母さん、弟のいる「日常」ではない。
「私たちは誰もセーラームーンになれない」が
「私たちは誰もセーラームーンになれなくて良かった」と、私はそう思う。
でも非日常に終わりがないからこそ、ずっと憧れていられる存在なのかもしれない。