コペルニクスの呼吸が本棚に眠っていた
本棚を整理していたら中村明日美子の「コペルニクスの呼吸」を見つけた。
初期の中村明日美子の絵は不安定で妖しくて美しい。
今の絵柄ももちろん好きだけど、この頃の表現はまたマニエリスムの彫刻を
思わせるような特別なものがある。
「コペルニクスの呼吸」は物語の構成も美しい。
舞台は1970年代のフランス・パリ。名前を亡くしたクラウンの物語。
主人公の心と状況の変化とともに
名前と見た目が変わるというわかりやすい構図になっている。
物語を大きく時系列に起こすと以下のようになるだろう。
【過去】ミシェル(少年時代。弟が死ぬ前)
↓ 弟の事故死
【起】トリノス(クラウンとして働く)
↓ ミナの事故後、サーカスを離れる
【承】タケオ(オオナギに囲われる。髪はバッサリ切られる)
↓ オオナギの元を離れることを決意
【転】タケオ(髪は伸び、もう一人のミシェルと暮らす)
↓ 団長との再会。物語全体の種明かし部分
【結】ミシェル(自分を取り戻しサーカスに戻る。団長を継ぐ)
こうやって捉えるだけでもだいぶ読みやすい話になると思う。
( 物語は「トリノス」としての主人公から始まるので、漫画はそこからの起承転結の構成である。)
『美しい』弟がブランコ乗りの途中で事故死したことによって、同時にミシェル自身もブランコ乗りとして死んでしまう。怖くて飛べなくなってしまった為だ。物語から推察するに15歳の頃だと思われる。
「自分のせいで死んでしまったのではないか」という罪悪感から、次第に弟こそが「ミシェル(天使)」だと妄執するようになる。
★弟の死をきっかけに、ブランコ乗りとしての自分と本当の名を失う
↓
かくして名を亡くしてしまった(というより捨ててしまった)彼は「トリノス」という名でクラウンとして生計を立てている。18歳の頃。「ブランコ乗りとして本当に死んだのは自分だ」という気持ちと「弟はコペルニクスの星座になった」という思いが、弟の幽霊の姿で現れている。
★「ブランコ乗りとして復活する」ことが「名の回復」となるという構図
↓
しかし、ミナの事故によって過去のトラウマに耐えられなくなり、サーカスを離れオオナギの元に身を寄せることとなる。それは即ち「ミシェル」を取り戻すことを諦め「タケオ」という名で生きるということだ。同時に弟の幽霊は出てこなくなる。
その後のレオとの交流によって次第に「サーカスに戻らなければ一生『ミシェル』には戻れない」ことを再確認する。
★一度は名の回復を諦め逃げ出すも、「ミシェル」と「ブランコ乗り」を諦めきれないタケオ
↓
ここから3年後に移る。大体21歳の頃。オオナギの屋敷を飛び出したものの、サーカスも時代の煽りを受けて彼は雇ってもらえない。なのでやむなく「タケオ」を名乗り続けている、という状況。「トリノス」にすらなれない八方塞がりのところでココの弟のミシェルと再開する。
★「同じ名の『ミシェル』と恋仲になる」ことで「代替的に名を回復しようとする」タケオ
タケオは「ミシェル」と繋がることで一時的な安心感を得る。
↓
それでもやはり、サーカスを諦めきれないタケオは、夜な夜なサーカスを見にいってしまう。そこで過去の団長と再開する。
現実とは「弟はただの事故死でミシェル(天使)になどなって居ない」
★「弟の死を正しく受け止めること」で「名を回復する」
「僕というミシェルは必要ないんだね」 というもう一人のミシェルの言葉。つらい。
「飛べるようになったんだね」といっているがその後ミシェルが ブランコ乗りとして復活したわけではない。
まぁ、6年のブランクはやはり取り返しがつかなかったのだろうか。
ただそれはもはや大きな問題ではない。
「だってもう僕は怖くて飛べなかった」という過去のトラウマを払拭し、ミシェルという名を取り戻した以上「ミシェルから遠くなる」こともないのだ。
あ〜〜〜〜、フランス、行きたいな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私たちは誰もセーラームーンになれない②
前回の記事の続き。
私たちは誰もセーラームーンになれない。
今度はセーラー戦士たちの話しをしたいと思う。
中でもメインメンバーは「セーラーマーズ」「セーラーマーキュリー」「セーラージュピター」「セーラーヴィーナス」の4人である。
彼女らもまた、普段は火野レイ、水野亜美、木野まこと、愛野美奈子、という
ごくフツーの女の子として生きながら、ある地点までは「非日常」としてセーラー戦士を引き受けている。
しかし、セーラームーンの仲間として戦ううちに、彼女らも「セーラー戦士」としての自我に目覚めて行くのであるが、
はっきりとした境界線がなく、段階的にセーラームーンとして目覚めて行く「月野うさぎ」と違い、彼女らは明確な通過儀礼を通してセーラー戦士としての自我を引き継いでいる点に特徴がある。
その理由は、4人にはもともと「現世の自分」としての将来の夢があった為である。
火野レイは「おじいちゃんの神社を継ぎたい。」
水野亜美は「母のような医者になりたい。」
木野まことは「幸せな結婚をして、花屋とケーキ屋をやりたい。」
愛野美奈子は「アイドルになりたい。」
このように彼女らは、少なくともセーラー戦士になるまでは、
それぞれ「現世の自分」として将来のため
必死に勉強したり、お料理をしたり、巫女として働いたりと努力していた。
これは月野うさぎが、特段夢もなく努力もせず「およめさんになりた〜い」と妄想していたのとは対照的である。
逆に言えば「今の人生に執着がないため、セーラームーンとしての役割を抵抗なく受け入れることができた」とも言えるかもしれない。
ある話で、敵は「それが本当にお前のやりたいことなのか?セーラムーンのせいで自分の夢から遠ざかって居ないか?」とセーラー戦士を誘惑する。
セーラー戦士たちの心は揺らぐ。
これは「現世の自分(日常)」として生きるのか「前世の自分(非日常)」として生きるのか選べということだ。
構図は前回も例に挙げた、おジャ魔女どれみの最終回に似ている。どれみ達は「現世の自分」を選んだと言えるだろう。同じく、神風怪盗ジャンヌの中でも前世ジャンヌの恋人が現れるが、現世の「まろん」として「稚空」を彼として選んでいる。
非日常ではなく日常を選ぶのが物語の王道であり正解とも言えるのかもしれない。
しかし、セーラー戦士の4人は一度は揺らぐも
「私の『本当の』夢はセーラー戦士としてセーラームーンとこの星を守ること!!」と自分の意思で、はっきりと非日常を選択しているのだ。
漫画が少女に伝えるメッセージとして、これは正しかったのだろうかと考えると
間違っていたのではないかと思わざるを得ない。
なぜか。
一番は、非日常を良しすることは現実を否定することだからだ。
火野レイ・水野亜美・木野まこと・愛野美奈子が、現実に向き合い、努力し、家族や友達を大切にしていた姿勢を結果的に否定し、
極端に言えば日常を生きている読者全員を否定していることになるからだ。
二つ目は、非日常であれ選択した以上はそれが日常になってしまうことだ。
最終話は、すべての敵との戦いが終わり結婚式の風景で終わる。お互いを「まもちゃん」「うさ」と呼んでいるところは、敵が去り日常が戻ってきた証と言える。
しかしそれはもう、お父さんやお母さん、弟のいる「日常」ではない。
「私たちは誰もセーラームーンになれない」が
「私たちは誰もセーラームーンになれなくて良かった」と、私はそう思う。
でも非日常に終わりがないからこそ、ずっと憧れていられる存在なのかもしれない。
私たちは誰もセーラームーンになれない①
小さい頃、セーラームーンが大好きだったけど、正直どんな話だったのかよく覚えてない。と言う人は結構いるんじゃないか。
この歳になって読んでみるとまた違った意味で面白いし、とにかくぶっ飛んだストーリーであったから、今更だけどオススメしたい。
美少女戦士セーラームーン 全12巻完結セット (新装版) (KCデラックス)
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読み終わった後「夢も希望もない話やんけ・・・」と思ったわけだが、まず結論だけ言うとタイトル通り「私たち、あんなにセーラムーンごっこしてたのに初めから誰もセーラムーンになれなかったんや」という一言に尽きる。
衝撃がでかすぎてなぜか関西弁になってしまったけれども、
「いやいや、セーラームーンになれないのは当たり前やん」という意見はまぁ実際その通りなんですけど。でも本来、「少女漫画」は変身ものであれ恋愛ものであれ「実際に私たちにもこんなことが起こりうるかも!(起こってほしい!)」という願望や幻想を形にしてくれるものだと思う。
だけどセーラームーンは「お前らは絶対にセーラームーンにはなれないからな!」と漫画の方から現実を突きつけてくるタイプの物語なのだ。
他の少女漫画と比較するとイメージし易いと思う。
同じような「変身もの」といえば、パッと思いつく限りだと(年代がバレるけど)「怪盗セイントテール」「ひみつのアッコちゃん」「神風怪盗ジャンヌ」「おジャ魔女どれみ」「魔法騎士レイアース」あたりだが、こういう変身もので共通するポイントは大体こんな感じだろうか。
・「いたって普通の女の子」が何かしらのきっかけで「魔法の力」を授かって「変身」する。
・そして自分が変身できることは、両親はもちろん、時には友達にも「秘密」であり、知られてはいけない。
・現実の世界と齟齬をきたさない。
これらを総合すると、「変身」とは「非日常」であるということだ。
つまり主人公(たち)は、例えどんなに強力な魔法を使えたとしても、毎日学校に通い、同じクラスの男の子に恋をし、テストの点数が悪ければ両親や先生に叱られなければならない、ということだ。なぜなら、読者である平々凡々な女子が夢を見るためには自分たちと同じ「フツーの女の子」が変身する必要があるから。
(例外的にレイアースは異世界に飛んでしまうが、その間地球の時間は進んでいないので結果的に日常には齟齬をきたしていないと言える。)
そしてその魔法的能力は、「イケメンの彼氏ができる」「ラスボスを倒す」などという理由で、大抵最終回において「役割を終える」こととなる。
やはりこれも、変身の能力は「少女時代に一時的にもたらされる非日常である」ということを示している。(これは余談だが、おジャ魔女どれみではそのあたりが明確に示されている。アニメの最終回では「人間界を離れて魔女になるか」「人間として生きるか」の2択を迫られ、全員が「家族と過ごす日常」を選択し、魔女見習い生活に自ら終止符を打っている。)
まぁ要は、ヒロインが30歳・40歳になって「職業:おジャ魔女どれみ」にはならない、というのが漫画と読者との不文律というわけだ。だからこそ、読者である少女たちは「自分の日常にもこんなことが起こったら良いのに」とか「アッコちゃんになりたい」などと安心して夢見ることができるのだ。
しかし、その「職業:セーラームーン」をやらかしてしまったのが、セーラームーンシリーズである。
セーラームーンの内容を知っている人は、これから何を言わんとしているかおよそわかったと思うが、これから読む人のためにもざっくり説明したいと思う。
********
セーラームーンにはそもそも「過去(前世)」・「現在(現世)」・「未来(現世の延長線上)」の三つの時間軸が存在する。
前世において、主人公「月野うさぎ」は「月の王国の姫」であり、タキシード仮面は「地球の王子」であり、2人は恋人同士であった。
現世の20世紀・東京に生まれ変わり、うさぎは「セーラームーン」として敵と戦ううちに、前世の記憶を取り戻していく。彼女は月の姫として、そしてタキシード仮面も地球の王子として、二人は地球を脅かす敵と戦うために、遂には現在と未来をも行き来し戦うこととなる。
30世紀の未来、この時代では、東京はクリスタル・トーキョーと名を変え未来のセーラームーンは姫から「女王」となり、地球と月の統治者となっていた。タキシード仮面も「王」となり、セーラームーンの夫として一緒にクリスタルなお城で暮らしている。ちなみに未来では二人とも不老不死になっているので若いままであった(一応寿命はあるっぽいのですが)。
現世のセーラームーンとタキシード仮面は、この未来の女王と王と力を合わせて戦い、地球と銀河の危機を救うのである。
********
んんんんん?????
ってなりませんか。私はなりました。なんだこの話ってなりました。
ちょっと細かい部分の説明不足感はありますが、本当にこう言う話です。
とすれば、ここで最初の話に戻るが本来「非日常としての姿」であるはずの「変身(セーラームーン)」が「本来の姿」になってしまうという逆転がここで起こっている。先ほど出した変身ものの前提と比較すると見事に逆行していることがわかると思う。
・「いたって普通の女の子」が何かしらのきっかけで「魔法の力」を授かって「変身」する。→もはや普通の女の子ではなく、変身後の「女王」の姿で固定
・そして自分が変身できることは、両親はもちろん、時には友達にも「秘密」であり、知られてはいけない。→秘密どころか統治者さま
・現実の世界と齟齬をきたさない。→現実世界ごと非日常(クリスタル・トーキョー)に取って代わられる
実際にストーリーの中でも、物語が進むほど「月野うさぎ」というフツーの女の子としての傾向は薄くなり、代わりに「セーラームーン」という側面が強く出てくるようになる。そして女王になった月野うさぎは「クイーン・セレニティ」という名で呼ばれるようになり、名前すら非日常に取って代わられてゆきます。
非日常であったからこそ、日常を生きている私たちにも「起こりうるかもしれない」という妄想を掻き立ててくれるはずの変身する少女は、そこには居ないのだ。
私たちは不老不死にはなれないし、さすがにクリスタルトーキョーで生涯にわたり統治者となることは「現実的」に無理だ。「現実的」という言葉がぴったりなほど、私たちは「現実」を生きているのだから。
セーラームーンは私たちの手の届かない、妄想することも許されない遠い存在だった。
そう、「私たちは初めから誰もセーラームーンになれなかった」のである。
…今回はここまで。
次の記事では、今回書けなかった他のセーラー戦士たち(セーラージュピターとか)
について書きたいと思う。セーラームーン怖い。
今日マチ子をもっと読みたい
今回は備忘録に近い。だらだらと書く。
やっぱり今日マチ子で一番インパクトがあるのは「cocoon」かもしれない。
美術手帖で作者が詳しく語っていたけど、 ひめゆり学徒隊をイメージに置きながらも
史実とか実際の取材とかには拘らず、イメージ重視で戦争を描いた作品らしい。
「戦争を知らない世代が戦争をイメージするとこんな感じ」な感じを確かにすごく反映してるのかなと思う。
唐突に残酷なシーンが出て見たり、変にファンシーだったり。
具体的な戦争の中身はほぼ出て来ないので、どういうテーマで捉えていいかちょっと迷う作品でもあった。
とにかく言えることは主人公のサン(蚕)とマユ(繭)という名前が本当に物語そのままで、
結局サンはマユに包まれて守られて、そして最後はマユを死なせてしまって自分は繭から出てしたたかに生きていくという残酷な話ですな。
ニンフもcocoonを読んだ後だとなんとなく掴みやすい話だった。
これも大正に起きた関東大震災をベースに置きながら、「時代の雰囲気」というものを、史実ではなくイメージ重視でファンタジーを交えながら描いた印象。
この主人公ユキもやはり結果として母親を死なせ、清次郎を死なせ、なんだかんだその美しさからいろんな男に守られ(守らせて)、最後には新しい「ママ」と幸せに暮らしました、というある種の残酷さとしたたかさが垣間見える。
年の近い百合子や、孤児の風太は「父親に必要とされたい」とか「本当は母親が欲しい」という、外部への思い、いわば「現実」と各々向かい合って日々闘って生きている。
しかしユキは一人だけ自分の中に子供を宿し、しかも処女の想像妊娠というどこまでも自己完結している感があり、対象的だった。
cocoonと同じく空想は消えて、これから現実で本当に幸せになれたらいい。
U(ユー)はまた毛色の違う物語。近未来に自分そっくりのコピー(クローン)を作ることができたら・・・と言う話。
どの話にも共通しますが、「研究所っぽい」「理系っぽい」という雰囲気があるだけで
イメージ重視。あくまで全体はファンタジーの世界。
結局クローンも「オリジナル」の人間にこだわり過ぎていたのかな、と思う。
「クローンはオリジナルよりも優れている。だからオリジナルを殺していい」という理屈が何度か出てくるが、誰かのクローンであれ、生まれた以上は個別の生き物だ。
誰かが気づけば違う道があったのかもしれない。
ラストの妹のセリフは、どう解釈したらいいのかわからなかった。単純に嫌味なのか、姉の代わりが欲しいのか、自分もコピーに殺されたいのか・・・それはないか。
西村助手もいつか本物の娘ではなくても、その後長く家族として一緒にいた個別の娘として、認めてもらえたらいいね。
この作家は読めば読むほど作品解釈がしやすくなるので今後もチェックしていきたい。
西加奈子「きりこについて」を読み終わったら「我輩は猫である」を読みたくなった
「楽しい読書したな〜!」っていうさっぱりした良い読後感が味わえた1冊。
今やってる「カドフェス2017」のロングセラー本に選ばれていたので読んでみた。
もともと西加奈子の文章は読みやすいと思うけど、これは特にテンポの良い、小気味いい文章で書かれていて、気軽に読めた。たまたま時間の空いた休日に一気に読むのもいいし、毎日の通勤電車の間なんかに少しづつ読み進めるのもおすすめできる。
読後は「面白かった」と「ちょっと元気出た」が丁度半々くらいである(当社比)
前にブログで書いた「うつくしい人」のように、心の暗い部分をゴリゴリ掘っていくような小説もあるので、この作家の表現の幅に本当に驚かされる。
「きりこについて」は「きりこは、ぶすである。」という中々失礼な(?)一文からスタートする。「ぶす(というワードは本の中で何百回と出てくる)のきりこ」と、きりこが飼っている聡明な黒猫「ラムセス2世」、そして、彼らを取り巻く人々の半生を描いた物語だ。
美男美女の両親の一人娘として生まれたのに、なぜか圧倒的なぶす(このぶす加減を表現した文章もまた笑ってしまうくらいひどい)に生まれてしまったきりこ。でも両親の愛情をたっぷり浴びて「私は可愛い」と疑いもせず育つ幸せなきりこ。
しかし、ある時好きな男の子に、「ぶす」と言われてしまったことからきりこの 世界が一変する。「え、私、ぶす(考えたこともなかった!)なの?」と…。
大人にとっては過去の物語
これは、今大人である私たちが今までに「各々自力で解決してきた問題」の物語であると言えるだろう。
誰しも一度は、(程度の差こそあれ)男の子に「ぶす」と言われたり、自分の見た目について悩んだ時期があるはずだ。だからこそ読んでいると「(ここまでぶすじゃないけど)ああ、そんなことあったな」という思いが良くも悪くも蘇ってくる。
そして当時は私たちも、物語に出てくる様々なキャラクターと同じように、少々無理なダイエットをしてみたり、オシャレに気を配ってみたり、少女漫画の世界の中に逃げ込んだり…してきたのではないだろうか。
そうして大人になるころには、自分の容姿に対するある程度の諦めだったり、彼氏ができたり結婚したりして自信がついたり、そういう外見のコンプレックスとの上手な距離の取り方を覚えていくものである(逆に言えば、「世の中金だ」とか別の基準が出てきてしまったりもするのだが)
というわけで、人によってはもうとうの昔に忘れてしまったその時々の感情(主に苦しみとか恥ずかしさとか)をユーモアたっぷりに、でも真面目な部分は真面目に、本当の意味でコンプレックスから解放されるまでを、きりこを通してもう一度追体験させてもらえる本です。
「そんな時のこともう思い出したくない!」という意見もありそうだけど、小学生の時好きだった人のこととか、中学生の時「あんなことで一喜一憂してたなぁ」とか色々思い出して面白かったので、ぜひこの記事を読んでくださった人にも読んでほしいと思う。
本筋ではないけど、飼い猫のラムセス2世が物語の中でなかなかいい仕事してて、ほんと、お猫様から見たら人間の世界って馬鹿馬鹿しいだろうな〜と思いました。
そういえば夏目漱石の「我輩は猫である」も猫目線の話だった。こんなに有名なのに読んだことないので、またタイミングを見て読みたい。最後に溺死することしかしりません。
今日はここまで。
児童文学「緑色の休み時間」とZONE「secret base 〜君がくれたもの〜」に思いを馳せる
小学生(中〜高学年)くらいの成長物語って、美しいよねという話。
緑色の休み時間―広太のイギリス旅行 (わくわくライブラリー)
- 作者: 三輪裕子,いせひでこ
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イギリスを舞台にした小説や映画は沢山あるけれど、忘れられない1冊がある。
小学生の頃に読んだ「緑色の休み時間」だ。
少しだけあらすじを書きたい。
小学6年生のコウタは、母・妹と共に、夏休みを使って1ヶ月のイギリス旅行に訪れる。イギリスに引っ越してしまった幼馴染のチサトに会いにきたのだ。
ウェールズ広大な自然で過ごす中、コウタは一人の少年ランダルと出逢う。英語を話せなくても、友達になっていく2人。
帰国が近づいたある日、ランダルの家に招かれたコウタとチサト。古城に住む彼の家の中を少しだけ見学していくはずだったが、ひょんな事から3人は古城の中から出られなくなってしまう・・・。
異国情緒と、冒険と、忘れられない夏
少年たちの若さが、ウェールズの自然の描写とマッチしていて、読むたびに子供の頃のワクワク感を呼び覚ましてくれる。
夏の冒険を主軸に、人生の喜びと悲しみがハーモニーを奏でる清らかな児童文学だ。
健やかであるということ
全体を通して言えば、この物語の本当の主人公はランダルとも言えるかもしれない。
ランダルは中々難しい家庭の事情を抱えているが、コウタとチサトの交流の中で、偶然にも消息不明だった母親の居場所を知ることとなる。
小学生の頃は、この辺の家庭事情がイギリス文化ならではの問題と結びついていることはよくわからなかったのだが、今ならしみじみと感じることができる。
複合的なテーマを扱っているにもかかわらず、小難しくならないラインを見極めている物語の構成も見事だ。
「ランダルから見たら、ぼくの生活なんて、ほんとうに平凡だな。」コウタはつぶやいた。
「平凡がいちばんいいってことだってあるわよ。」チサトがぽつんといった。
物語は一貫してコウタの視点から語られ、必要以上に踏み込んだ記述はない。コウタもまた、子供なりに理解できている部分とそうでない部分があるのかもしれない。
本の最後を見ると、この本は1988年、今から30年近く前に出版されたものらしい。
今この歳になって読むと、むしろ物語で語られなかった人のことを考えてしまう。
戦争と冷戦の時代を、古城を守りながら生きるとはどのような気持ちなのかとランダルの祖母に思いを馳せたり。
あるいは、30年前の当時、父親の仕事の都合でイギリスに転校すると決まった時はどんな思いだったろう、とチサトを想ったり。
みんな何かを抱えながら生きている。そんな当たり前のことを当たり前に感じて、子供が一つ大人になる姿は、いつだって美しいのだ。
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脳内イメージソングはこの辺。これも小学生の出会いと別れ、そして成長。
幼く無邪気なだけの季節は終わり、でも中学生の思春期にはまだ早い、ほんの一瞬の美しさをいつも想う。
窪美澄「アカガミ」を読んだら「茶色の朝」を思い出した
窪美澄「アカガミ」を読んだので思ったことを書く。
まずはじめに言いたいのは、
この小説を「少子化問題」や「若者の引きこもり」といった、「現代の若者」云々なテーマで考えるのはちょっと違うんじゃないか?
ということだ。
本来、窪美澄は人生の「生きづらさ」「ままならなさ」というテーマを非常に得意としている作家だと思う。
登場人物とその人生の圧倒的リアリティは、いい意味で吐きそうになる程だ。その苦しみからのカタルシスを味わいたくて、私はこの人の本を読んでいるのだと思う。
これは余談だけど、窪美澄を初めて読む人には「ふがいない僕は空を見た」を断然オススメしたい。デビュー作で賞も取ってて、映画化もされている。 この作家の真骨頂だと思う。
という訳で話を戻すけれど、 要は今回も「カタルシス」を期待していた私にとって、最初は肩透かしを食らったようであった。
人物像にリアリティがない。率直に言えば「らしくない」という感じだ。
主人公のミツキは25歳の女性。「引きこもり」で「鬱」で「性に興味のない」というキャラクターで、非常に偏った現代若者的レッテルをベタベタ貼り付けられたような感じだ。
そして、周りには「恋愛(sex)」して「出産」して、「健全に」生きてきたと主張するこれも偏った大人像たちがひしめき合っている。
「あなたたちが抱えているような絶望って、すごくチープね。ドライブスルーで買うハンバーガーみたい」と「大人」側の人間が言う場面があるのだが、まさに若者も大人も、と言って良い。主人公の「鬱」の苦しみも大人の言う「恋愛」の喜びさえも 非常に曖昧でふわっとしている。
少しあらすじに触れておきたい。
「アカガミ」の舞台は西暦2030年。近未来の日本である(この設定がすでにふわっとしている)。若者の性欲低下は著しく、また自殺は増加の一途を辿っていた。
そこで国は「アカガミ」制度を実行する。それは住む場所も、食事も、健康管理も、完全に管理された場所で、その人の「まぐわい」相手を政府が決定すると言うものだった。
主人公のミツキは、自殺未遂を救ってくれた女性の勧めで「アカガミ」に参加することを決意する。「ミツキ」とまぐわい相手「サツキ」の共同生活が始まった。
当初の不安に反しうまく進んだ二人だが、ミツキの妊娠を機に不穏な予兆が現れ始める。「アカガミ」の制度によって生活に過剰な干渉を受け始めるのだ。時に、自分の意思に反して。「安全な出産のために」と言う名目で。
「アカガミ」とは一体何なのか。守られているという安心感と、正体の見えない不安を抱えたまま「出産」の日は訪れる…。
結局最後まで「アカガミ」について明確な種明かしは無いのだが、読後は変な気持ち悪さが残る。この「変な気持ち悪さ」は「アカガミ」に対してではなく、
何かがおかしいと思いながら結局流されて来るところまで来てしまった主人公、ひいては主人公と一緒にそれを受け入れてきた自分自身に対する気持ち悪さだ。
この気持ちは自分の中で「茶色の朝」の読後感と圧倒的に似ている。
- 作者: フランクパヴロフ,ヴィンセントギャロ,藤本一勇,高橋哲哉
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http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
(上のURLには全文あり。短い話なので10分くらいで読めると思う。)
初めは「変だけど仕方ないか」と思える法律から始まり、次第にエスカレートしていく。気づいた時には、独裁はもはや誰にも止められないところまで来てしまう。そしてとうとう主人公も…。という思考停止に警鐘を鳴らした寓話である。
「茶色の安全というのも悪くはないもんだ。」
「もっと抵抗すべきだったのだ。だがどうやって? 連中の動きは実に迅速だったし、私には仕事もあれば日々の暮らしの悩みもある。他の連中だって、少しばかりの静かな暮らしが欲しくて手を拱(こまね)いていたんじゃないのか?」
という表現が出てくるが、アカガミもほぼ同じ理屈で物語が進んでいく。
そもそも「アカガミ」といえば「赤紙(第二次世界大戦時の軍の召集令状のアレ)」が嫌でも思い浮かぶ訳で、穏やかなものとして表現されていないのは明らかだ。
「僕らは守られているんだよ。それにもっと甘えればいいんだ。守ってくれるものがあるんだから」
「私はそこまで知らなかったの。ほんとうにごめんなさい。ミツキに……」
ラストは「茶色の朝」と違って希望があるので、それは良かったと思う。
現代の若者の恋愛や出産と言う枠を超えて、「人が理不尽なものを思考停止して受け入れていく過程」というものが、何よりリアルで考えさせられる物語だった。
今日はここまで。