窪美澄「アカガミ」を読んだら「茶色の朝」を思い出した
窪美澄「アカガミ」を読んだので思ったことを書く。
まずはじめに言いたいのは、
この小説を「少子化問題」や「若者の引きこもり」といった、「現代の若者」云々なテーマで考えるのはちょっと違うんじゃないか?
ということだ。
本来、窪美澄は人生の「生きづらさ」「ままならなさ」というテーマを非常に得意としている作家だと思う。
登場人物とその人生の圧倒的リアリティは、いい意味で吐きそうになる程だ。その苦しみからのカタルシスを味わいたくて、私はこの人の本を読んでいるのだと思う。
これは余談だけど、窪美澄を初めて読む人には「ふがいない僕は空を見た」を断然オススメしたい。デビュー作で賞も取ってて、映画化もされている。 この作家の真骨頂だと思う。
という訳で話を戻すけれど、 要は今回も「カタルシス」を期待していた私にとって、最初は肩透かしを食らったようであった。
人物像にリアリティがない。率直に言えば「らしくない」という感じだ。
主人公のミツキは25歳の女性。「引きこもり」で「鬱」で「性に興味のない」というキャラクターで、非常に偏った現代若者的レッテルをベタベタ貼り付けられたような感じだ。
そして、周りには「恋愛(sex)」して「出産」して、「健全に」生きてきたと主張するこれも偏った大人像たちがひしめき合っている。
「あなたたちが抱えているような絶望って、すごくチープね。ドライブスルーで買うハンバーガーみたい」と「大人」側の人間が言う場面があるのだが、まさに若者も大人も、と言って良い。主人公の「鬱」の苦しみも大人の言う「恋愛」の喜びさえも 非常に曖昧でふわっとしている。
少しあらすじに触れておきたい。
「アカガミ」の舞台は西暦2030年。近未来の日本である(この設定がすでにふわっとしている)。若者の性欲低下は著しく、また自殺は増加の一途を辿っていた。
そこで国は「アカガミ」制度を実行する。それは住む場所も、食事も、健康管理も、完全に管理された場所で、その人の「まぐわい」相手を政府が決定すると言うものだった。
主人公のミツキは、自殺未遂を救ってくれた女性の勧めで「アカガミ」に参加することを決意する。「ミツキ」とまぐわい相手「サツキ」の共同生活が始まった。
当初の不安に反しうまく進んだ二人だが、ミツキの妊娠を機に不穏な予兆が現れ始める。「アカガミ」の制度によって生活に過剰な干渉を受け始めるのだ。時に、自分の意思に反して。「安全な出産のために」と言う名目で。
「アカガミ」とは一体何なのか。守られているという安心感と、正体の見えない不安を抱えたまま「出産」の日は訪れる…。
結局最後まで「アカガミ」について明確な種明かしは無いのだが、読後は変な気持ち悪さが残る。この「変な気持ち悪さ」は「アカガミ」に対してではなく、
何かがおかしいと思いながら結局流されて来るところまで来てしまった主人公、ひいては主人公と一緒にそれを受け入れてきた自分自身に対する気持ち悪さだ。
この気持ちは自分の中で「茶色の朝」の読後感と圧倒的に似ている。
- 作者: フランクパヴロフ,ヴィンセントギャロ,藤本一勇,高橋哲哉
- 出版社/メーカー: 大月書店
- 発売日: 2003/12/01
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(上のURLには全文あり。短い話なので10分くらいで読めると思う。)
初めは「変だけど仕方ないか」と思える法律から始まり、次第にエスカレートしていく。気づいた時には、独裁はもはや誰にも止められないところまで来てしまう。そしてとうとう主人公も…。という思考停止に警鐘を鳴らした寓話である。
「茶色の安全というのも悪くはないもんだ。」
「もっと抵抗すべきだったのだ。だがどうやって? 連中の動きは実に迅速だったし、私には仕事もあれば日々の暮らしの悩みもある。他の連中だって、少しばかりの静かな暮らしが欲しくて手を拱(こまね)いていたんじゃないのか?」
という表現が出てくるが、アカガミもほぼ同じ理屈で物語が進んでいく。
そもそも「アカガミ」といえば「赤紙(第二次世界大戦時の軍の召集令状のアレ)」が嫌でも思い浮かぶ訳で、穏やかなものとして表現されていないのは明らかだ。
「僕らは守られているんだよ。それにもっと甘えればいいんだ。守ってくれるものがあるんだから」
「私はそこまで知らなかったの。ほんとうにごめんなさい。ミツキに……」
ラストは「茶色の朝」と違って希望があるので、それは良かったと思う。
現代の若者の恋愛や出産と言う枠を超えて、「人が理不尽なものを思考停止して受け入れていく過程」というものが、何よりリアルで考えさせられる物語だった。
今日はここまで。
西加奈子「うつくしい人」を読み、そして「伊豆の踊子」へ
読むのは今回2回目で、1回目に読んだ時は「主人公の闇(病み?)」に
引っ張られすぎて、読んでいて非常につらかった記憶がありましたが、
読み直して初めてマティアスや坂崎の優しさにきちんと触れられたような気がしました。
この物語は、蒔田百合(まきたゆり)という32歳の主人公が一人で旅行に出るために羽田空港に到着したところから始まります。
旅行といっても、楽しいものではありません。主人公はこれまでずうっと病的なまでに周りの目を気にして生きていて、今回仕事中の小さなミスがきっかけで、いっぱいいっぱいになっていた自分の気持ちが爆発してしまい、仕事を辞めてしまいます。
仕事を辞めた後、ほとんど家から出られなくなった自分をさらに自分自身で責めてしまい、衝動的に国内旅行に出たのでした。
この小説は初めから終わりまで、一貫して彼女の 視点から物語が進むので、特に初めが結構しんどかったです。病んでます。
でも、この「しんどい」描写がこの小説、すごいのです。ヒリヒリします。
「辛い」という状態をこれほどまでに主観的に文章として表現できるのは才能だと思います。これは実際に同じ精神状態になった人でないと書けないよなぁと思っていたら、やはり作者自身のメンタルが不安定だった時に書いた小説だったようです。(あとがきに記載がありました)
しかし、反対にこの「百合」そのものは共感しにくいキャラ設定でもあります。
32歳なのに、親にお金があって、結構な額の仕送りを貰って上等なマンションに住み、旅行も高いスーツケースも全て親のお金。今まで彼氏もそれなりにいて(しかも外車を乗りまわしているような彼氏)、たぶん百合って美人なんだろうな、と思います。
人から見れば、良い悪いは置いておいてもまぁ恵まれていて「何が不満なの?病んでるなんて甘えなんじゃないの?」というような人生を送っています。
高校時代にはスクールカーストに巻き込まれたり、いじめに加担こそすれ、自分自身がいじめられてきたわけではありません。
でも、彼女の闇はもっともっと深いところにあります。
10代の頃から家に引きこもっている姉への愛情と憎しみ。
物語が進むにつれ、全ての物事はここに集約されていきます。
旅行先で出会った、白人の若者マティアスと、ホテルのバーの冴えないおじさん坂崎もまた、他人には癒せない闇を持っています。
闇を持つ同士が、慰めるでもなく、何かを解決させるでもなく、ただ一緒に時間を過ごすことで自分の生きる力を取り戻していく。
「そう、とても美しい人なの、姉は。マティアスも、美しい人です、とても。」
ホテルを去る時の最後のこのセリフ、とても印象的です。
憎しみだけに目を向けてきた姉への愛情に気づくことで主人公は歩き出します。
読後感は非常にさわやかで頭の奥が甘い余韻を残します。良い小説でした。
有名過ぎて説明はいらないと思いますが、彼も恵まれた学生でありながら「孤児根性で歪んでいる」と自身を責め、その息苦しさからに伊豆旅行に出ます。
彼を救ったのは踊子の「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」という開けっ放しな響きをもった言葉でしたね。
なんとなく「うつくしい人」と 対になる言葉だと思いました。
今日はここまで。
箱庭的幸福/エッシャー展に寄せて
なんともなしに行ったエッシャー展が素晴らしかったので書きます。
(横浜そごう美術館。名前のまんま、横浜駅から直通のそごうにあります。)
私のエッシャーの認識としては「だまし絵描いてる人」程度のものでしたが
今回のブログでお詫び申し上げたいと思います。
まず本物をみて思ったことは【想像以上に絵が精密】。
単に、3次元的に存在し得ない不思議な絵を描くだけならここまで心惹かれない気もしますが、エッシャーの絵は非常に装飾的で精密で、それが作品にある種のリアリティを与えています。
実際、製作過程では拡大鏡を使用しているようですし、それだけで本当に見ごたえがあります。
そして何よりも感動するのは、一つ一つの絵がそれぞれ【完全に美しく完結した世界観をもっている】ことです。
エッシャーの作品には、ある種の「エッシャーらしい」幾何学的に配置された模様や、独特のモチーフはありますが、エッシャー個人の感情(楽しい・悲しい)などは読み取れません。
それぞれの絵は、感情を超えた「規則」に則って完璧に配置され、絵の中にぴっちりと納まっています。まさに【箱庭】のような世界。
その作品の中にいる限り絵も私たちも幸福でいることができる・・・そんな風に感じました。
エッシャーの作品は、版画だからなのか(しかも細かいし)どれも割と小さいサイズのものが多く、さらに白黒のものが圧倒的です(彩色あっても2色程度)
でも、絵の大小や彩色にかかわらず「この絵はこれ以上でもこれ以下にもならない。この絵に描かれていることがすべてなんだ。」とどの作品をみても感じました。
今日の結論としては、
「エッシャーの作品は単なるだまし絵にあらず!箱庭世界で世を救う画家である」
です。飛躍しすぎでしょうか。
最後に。展示作品で一番好きだったのはこの作品でした。サイトに作品多数載っていたのでぜひ。
じん(自然の敵P)「カゲロウデイズ」と萩尾望都「酔夢」が似てる
二つの共通点について書きます。
まず、カゲロウデイズは所謂ボカロ曲です。
結構有名だから知らない人も聴いてみたらいいと思う。
本家の動画じゃないようですが、こっちのほうが状況が分かりやすいので。
(余談ですが歌い手りぶの「歌ってみた」もおすすめ)
非常に不思議な世界観ですが、萩尾望都の漫画にも似たようなのが。
こちらに収録されている「酔夢(すいむ)」です。
21Pくらいの短編なのでどこまで有名なのかは知らないのですが
知らない人のためにあらすじを。
※※※
前世。占い師は姫に告げる。
「心を告げるいとまもなく あなたはその人の足もとで うつぶせで死ぬだろう」
そしてその通りになってしまう。
生まれ変わった未来ではお姫様は男(正確には両性具有)に生まれ変わっていた。
過去と少しだけ状況が違うためか、2人はつかぬ間心を通わせることができる。
過去の運命を止めようと男は夢を遡り過去へ行く。
しかし、運命を阻止しようとして、運命が逆転する。
過去では姫が生き残り、未来でも今まさに男が死のうとしている。
占い師の声が聞こえる
「その男はあんたの足もとで あおむけで死ぬだろう」
※※※
おわり。
書いててつらくなってきた。ぜひ漫画で全部読んでみてほしい作品です。
というわけで2つの話はこう。
「ある(運命づけられた)男女は、何回目覚めても(何度生まれ変わっても)
女性が死に、男性が生き残る。結ばれることはない」
↓
「運命を変えようと男が動く」
↓
「女性の死は免れるが今度は男性が死ぬ(また繰り返す)」
どちらも話はここで終わるわけですが、これにそもそも元ネタって何か
ある気もするんだけどどうなんだろう。気になる。
ネットのコメントで「2人一緒に死んだら何か変わるんじゃ」という考察が
されていて興味深いと思いました。
やっぱりオチはないけど今日はここまで。
GLIM SPANKYの「大人になったら」がしびれる
最近毎日聞いてる一曲。
自分達がやっていこうとしている音楽に対する決意表明のような歌。
相手に投げかけるような言葉ですが、その言葉一つ一つがむしろ反対に歌っている側が何に強い執着があるのかわかる、そんな歌。
GLIM SPANKYのルーツは60~70年代のロックだということは既に
いろんなところで言われている話ですが、
『そんな(60年代70年代の)ロックは知らない 要らない 聴かない君が 上手に世間を 渡っていくけど』
『私たちは やることがあって ここで唄ってる』
こういうわけですね。
この『要らない』っていう表現がすごい。強烈。「キョーミ無い」「知ろうともしない」「必要ない」そういう色んな要素をまるごと説明している。
わざわざそういう言葉を選ぶところに歌う側のフラストレーションを感じるし、
『上手に世間を渡って』っていうのもちょっと皮肉だよね。
じゃあ60年代ロックにもともと興味ない人に自分達の音楽は届かないのか、
意味はないのかというと、いやいやそんなことはないよと。
唯一歌詞の中で不満や主張が語られていないのが
『知らないあの子が 私の歌を そっと口ずさむ夜明け 優しい朝』
私個人の感じ方としては・・・この「あの子」は若くて60年代のロックを知らない子を想定してるのではないかな・・・と思っています。
(逆に『君』は同世代かな。それ以上になると当時のロックをダイレクトに聴いていた時代になってしまうと思うので)
そもそも、60年代のロックを知っている人に伝わりやすいのは当然で、『あの子』に伝わっている、自分達があの時代のロックを受け継いでいる。確かに誰かに届いてる。
だから私は唄って行ける、唄ってゆくのだ、と。
そんな風に受け取りました。
こんな強い生き方をしてみたいものです。
今日はここまで。
三島由紀夫「潮騒」と米津玄師「海と山椒魚」が合う
三島由紀夫の「潮騒」を読みました。以下感想。
とにかく読んでいて、幸福な気持ちにさせられる小説でした。
少女マンガか!ってくらい、最初から最後までピュア。心が洗われました。
舞台は歌島。実在の島で、今は神島と呼ぶらしいです。
若く逞しい、寡黙だけど真面目で正直な漁師の新治と、愛らしくみんなの憧れの的、海女の初江。2人は愛し合ってるんだけど、小さな島なのに、小さな島だからこそ、いろいろあってなかなか進まない。でも最後にちゃんと結ばれる。
「潮騒」のいいところは、本気で嫌なやつは出てこないところだと思います。
歯がゆいんだけど安心して読み進められるというか。現実にはないかもしれないけど、誰もが心の中に持っている桃源郷みたいな世界。どきどきしながら2人の恋を見守る島の海女の気持ちで読みました。
モブの千代子も非常に人間くさくて好きです。
本当は新治が好きなんだけど、自分に自信がなくて嫉妬したり、意地悪な気持ちになったり、それをくよくよしたり。最後まで気持ち伝えずでしたけど、彼女の気持ちが少しだけ報われるシーンがあって、「よかったね!よかったね!(涙)」と胸がいっぱいになりました。
人生には、直接的に報われるものと、間接的に報われるものがあって、間接的に報われることのほうがいつまでも心に残ったりするものですよね。
こんな幸福な小説を書いたひとが31歳で割腹自殺したとは人生難しいですね。
というわけで、読んでる間に聞いていたのはこれ。
米津玄師の「海と山椒魚」。「潮騒」の世界観に非常に合っていました。彼自身、宮沢賢治とか三島由紀夫も好んで読んでいたそうなので、さもありなん。
「海と山椒魚」自体も井伏鱒二「山椒魚」からきてそうだし(山椒魚は呼んだことない・・・)
この小説、映画にでもなってそうだな~と思ったら、やっぱりなっていました。
百恵ちゃんではないですか。百恵ちゃんの「伊豆の踊り子」は高校生のときに見たことあります。これも近々観ておこうと思います。